囲碁の歴史


はじまりは4000年前

囲碁のはじまりは、3000年前とも4000年前とも言われております。

現在、西暦2023年ですから、4000年前というとその倍でありますからちょっと想像できないですね。

日本でいうと縄文時代の終りころということになります。

最初は占いや暦に使用したという説があります。

りっぱな碁盤ときれいな碁石を使っての占いであれば、現代でも需要があるのではないでしょうか?


三国志の時代(西暦200年くらい)

時は過ぎて、日本人が大好きな三国志(西暦200年くらい)の時代

呉を建国した孫堅の兄である孫策棋譜が残っているとの話もあります。

関羽の逸話で、腕に矢傷を受けた関羽が手術時に碁を打って麻酔代わりにしていたという豪傑話は有名です。

すでに囲碁は、戦略を要する知的なゲームとなっていたのでしょう。

隋書倭国伝(西暦636年)

倭王である多利思比孤が「日出ずる処の天子」と自称し、隋の煬帝が悦ばなかったことでよく知られている隋書倭国伝に次のような記述があるそうです。

倭人は、棊博(きはく)、握槊 (あくさく)、樗蒲 (ちょぼ)の戯を好む」
(日本人は、囲碁、すごろく、博打が好きだ。)

隋書倭国伝は、西暦636年に執筆されております。


中国には、「琴棋書画(きんきしょが)」という言葉があり、それは、官僚が嗜(たしな)むべきとされた4つの芸のことであります。

琴は楽器の琴です。書は書道。画は絵画。

そして、棋は、もちろん囲碁のことであります。


飛鳥時代(西暦701年ころ)

日本では、歴史の教科書で習った飛鳥時代大宝律令(西暦701年)に囲碁の項目があるとのことです。

律令国家の基本法典である大宝律令にて、すごろく、博打を禁止したそうでうが、囲碁は禁止しないと明記されていたとのことです。

奈良の東大寺大仏殿にある正倉院には、聖武天皇(701~756)の遺品や当時の品物が多くおさめられており、正倉院宝物中屈指の名宝である「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)という碁盤がござます。

その容器である金銀亀甲棊局龕(きんぎんきっこうききょくのがん)また、これに附属する碁石[紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)、紺牙撥鏤棊子(こんげばちるのきし)]、碁石入れ[銀平脱合子(ぎんへいだつのごうす)]などのお宝もございます。


平安時代(1000年くらい)

平安時代(1000年くらい)の有名な文学作品である、紫式部の「源氏物語」、清少納言の「枕草子」、また「古今和歌集」にも碁の描写があり、平安時代には、囲碁は貴族のたしなみとされていました。

源氏物語」では、空蝉(うつせみ)と軒端荻(のきばのおぎ)の女性同士で碁を打つ描写があり、そこには、囲碁用語が飛び交ってるとのことです。 

また、藤侍従の姉妹が庭の桜を賭けて碁を打つ場面や、帝と中納言源薫との対局場面なども描かれているとのことです。

そうそう、ヒカルの碁の藤原佐為(ふじわらのサイ)も平安時代の碁打ちでした。


戦国時代(1560年くらい)

戦国時代(1560年くらい)

日本人なら誰もが知っている戦国武将の織田信長豊臣秀吉徳川家康は、初代本因坊である算砂に、それぞれ5子の手合いであったとあります。

専門家に5子は、そうとうに強いです。

現代において、井山さんに5子で勝つことはまったく想像ができません。

外にも武田信玄真田昌幸真田幸村など名だたる武将が碁を打っていたと記録されています。

戦国武将には、知的戦略ゲームとして囲碁は好まれていたのでしょうね。


江戸時代(1603年~1867年)

江戸時代(西暦1603年~1867年)

徳川家康囲碁を好んでいたこともあり、囲碁の達人たちが幕府から俸禄を得るようになりました。そして、本因坊家、井上家、安井家、林家の四家を家元と捉える家元制度が確立いたしました。

各家元は寺社奉行の配下となり、役人名鑑にも「御碁所」としてその名が記されていたとのことです。

幕府の保護もあり、この江戸時代に日本の囲碁の技術は急速に発展をいたしました。

碁所には名人(九段)が就くこととなり、段位制は元禄時代(1688~1704)本因坊道策によって確立され、九段から初段までの区分は現在まで続いております。

また、道策をはじめとする現代の打ち手にも引けを取らない名人たちが次々と登場する時代でもあります。

1626年にお城碁が始まります。家元たちのお役目は、毎年11月17日に江戸城で将軍に披露するそのお城碁でした。

家元とは、囲碁という芸能をもって将軍に仕える人たちのことでありました。

日本棋院創立(1924年)まで

明治維新(西暦1868年)より日本棋院創立(1924年)まで

江戸幕府が崩壊すると、家元たちは旧来得ていた俸禄を得られなくなりました。本因坊秀和は、倉庫暮らしを余儀なくされたとのことです。

村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)と中川亀三郎(本因坊丈和の三男)を中心として、囲碁の研究会「方円社」が発足することとなりました。

方円社は、雑誌「囲棋新報」を発刊して方円社関係者の棋譜を会員に届けたり、従来の家元が認定する段位制度ではなく、実力主義の級位制を取り入れたりするなど、囲碁の新しい時代を築いていくこととなります。

また、幕府からの俸禄を失った棋士たちは、有力な後援者の援助を得ること、免許状発行による収入、新聞に棋譜を掲載するにあたっての対局料が主な収入源となりました。

1898年に神戸新聞囲碁欄を設ける先駆けとなり、明治末期の頃には、朝日、毎日、読売など有力な日刊紙はもとより、地方紙にも定期的に棋譜が掲載されるようになりました。その結果、囲碁が幅広く一般の庶民に普及することとなりました。

この時代の囲碁界は、本因坊家、方円社、裨聖会(ひせいかい)と三派が対立し、混沌といたしますが、関東大震災により三派は経済的に大ダメージをうけることとなりました。

1924年大倉喜七郎男爵が「国内の普及はもちろん、日本文化の誇りである囲碁を世界に普及しようという理想をもってやるのなら、経済的援助を惜しまない」と呼びかけたことにより、三派が大同団結し、日本棋院が誕生することとなりました。

なお、大倉喜七郎男爵は、2006年第3回目の表彰にて、囲碁殿堂入りをされております。


最後までご覧いただきありがとうございました。
よろしかったら、ご感想などをコメントでお聞かせください。


 


 

kakiipeasan.hatenablog.com

 

 

kakiipeasan.hatenablog.com